昨日の続き

昨日は眠さと勢いに任せて、青春パンク批判をしたけどちょっと訂正。っていうか反省。
自分は確かにスタンスパンクスとかサンボマスター、ガガガとかシャカラビとかゴイステ、などなどチャートに時たま顔を見せるバンドには失望しっぱなしだけど、逆に言えばそういったメジャーどころでしか判断してないってことにもなりますね。
もっとライブハウスだとかストリートなんかで活動している、アンダーグラウンドの人々も見てからじゃないと偉そうなこと言えないと。またそういう人たちの音楽をリスナーに届けることをメディアがやってない、っていう批判は的を射ていないですね。
今はこんなにWEB環境が発達してて、受け取るにしても発信するにしてもかなりディープな領域まで情報共有することができるから。
アーティスト・シーンの批判をする前に、自分自身の姿勢を正せということです。

ちょっとずれるんですけど、消費財なんかに関して言えば一般的にメジャーになればなるほど、品質も向上していくし、そのユーザーも多くなりますよね。
たぶんSONYのMDプレイヤーよりAIWAのそれの方が良いっていう人は、まあコストパフォーマンスとか耐久性とか、そういうのを考え無い限りと少数派でしょう。
でも音楽にはそういう傾向が必ずしもあてはまらない。
HIPHOPの世界なんかでは、クラブで活動してたグループ・ラッパー・ダンサーがメジャーシーンに移ると、「ダサくなった」っていう風に言われちゃうんだそうです。
これをDISるっていうらしいんですね。その「ダサくなった」っていう反応がどんな評価軸からきているのかよくわからないんですけど、やっぱりメジャーに映ってより多くのリスナーを得るためには、わかりやすさ・キャッチーさが重視されて、アンダーグラウンドの特質としての過激さや玄人っぽさを犠牲にしなきゃならないからなのかな。
まあその辺はそれぞれ固有の事情があるんだけど、注目したいのは一般的な消費財に関しては、例えば先にあげたAIWASONYっていう批判があまり説得力がないのとは対照的に、音楽のメジャー>マイナーっていう図式を受け入れてしまうことがなぜか妥当でない気がしてしまう。

市場原理で考えれば、より多くの消費者を獲得することがそれぞれの製造者(前者では企業、後者はアーティスト)の目的であるわけです。
なぜなら市場原理というのは本質的に利潤の追求・規模の拡大・シェアの占有を目指すものだから。
だからより多くの消費者に受け入れられることこそが善であり、その為の製品(製品/楽曲・パフォーマンス)の変更は改良として受け入れられる。たとえ、それ以前の製品形態を好む人がいたとしても、そこを切り捨てることは市場原理に基づく企業活動においては合理的とされる。

でもここで重要なポイントとなるのは、はたして音楽の土台を市場原理のもとにおいて良いのかということです。つまり、音楽の評価軸は、消費者の総数とそこから生まれる利益に依拠してもよいのかということ。
音楽を生業にして生きている人は、ここでYESと言うべきだと思う。
それは・・・・
まとまんね、またあした。